道を選び続ける医師へ
私は岐阜県揖斐郡大野町で生まれ育ちました。実家は酒屋を営んでおり、両親、祖母、弟ふたりと私の6人家族です。子どものころは、父と一緒に配達に出かけることもあり、家業を手伝いながらのびのびと過ごしていました。小・中学校は地元の町立校に通い、高校は岐阜高校へと進学。大学進学を機に上京するまでは、ずっと岐阜の町で暮らしていました。
高校時代はもともと工学部志望で、原子力やエネルギー関連の分野に関心がありました。そんなある日、担任の先生から「君の成績なら医学部も目指せるのでは」と勧められたことがきっかけで、東京大学医学部の受験を決意しました。
とはいえ、今振り返ってみると、弟が1歳のころにインフルエンザワクチンの副反応で心身に重い障害を負ったことが、心のどこかで医療に目を向けるきっかけになっていたのかもしれません。医療が常に身近にあった環境だったからこそ、自然とこの道を選んでいたのだと思います。
東京大学では、医学部の理科三類に進学しました。学生生活の中で、何か一つのことに没頭していたわけではありませんが、遊びも学びも人との関わりも含めて、バランスよく過ごしていたと思います。麻雀に夢中な友人もいれば、勉強に真剣に取り組む仲間もいて、私はそのちょうど中間くらいの位置にいたような気がします。
部活動は、医学部のバスケットボール部に所属していました。中学時代に熱心に取り組み、県大会で優勝したこともあったスポーツです。ちょうど私が入学した年に休部から再開されたタイミングでもあり、自然な流れで入部を決めました。
アルバイトは家庭教師をしていました。今でこそ飲食店など多様な選択肢がありますが、当時は家庭教師が効率のよいアルバイトとして一般的だったと思います。目白や世田谷など、さまざまな地域のご家庭を訪ねて指導していました。
医師としてのキャリアは、産婦人科からスタートしました。病気を治すことが医師の本分である一方で、出産という人生の大きな喜びに立ち会えることに魅力を感じたからです。
当時はまだ臨床研修制度が整っておらず、医師免許を取得するとすぐに大学の医局に所属し、関連病院へ赴任するのが一般的でした。2年目には地方の中核病院に配属され、限られた人数で多くの患者さんに対応する、非常に忙しい日々を過ごしました。
そのような中、手術後の麻酔管理中に医療事故が発生し、私が主治医を務めていた患者さんが亡くなるという経験をしました。現在では考えにくい技術的な問題が背景にありましたが、当時の医療体制や設備の限界も大きく影響していたと思います。
本来は「喜びを分かち合える医療」に関わりたいという思いで選んだ産婦人科でしたが、この出来事を経て、自分が本当に向き合うべき医療とは何かを深く考えるようになりました。そして、「生死に関わる医療こそ、自分が取り組むべき分野なのではないか」という思いが次第に強まり、呼吸器内科への転向を決意しました。
呼吸器内科への転向を決意したのは、医師として3年目を迎えた頃のことです。周囲の同級生たちはすでにそれぞれの専門分野に進んでおり、当時、医局を変えるのは今よりもずっとハードルが高いものでした。
産婦人科の教授や医局長に意思を伝えた際には、厳しい言葉をいただいたことを今でも覚えています。ちょうど大学に戻るタイミングで、私が配属される予定の研究室も決まっていたようで、期待をかけていただいていた分、落胆されたのだと思います。それでも、「自分の人生は自分で選びたい」という思いを胸に、頭を下げて辞める決断をしました。
そのような状況の中、同級生のつてをたどって紹介を受け、都立駒込病院の膠原病内科に入職しました。ここで出会ったのが、呼吸器疾患にも造詣の深かった恩師・猪熊茂子先生です。膠原病に伴う肺病変の診療や、気管支鏡を用いた検査にも積極的に取り組み、2年間の研修を通じて、呼吸器内科医としての基礎をしっかりと築くことができました。
その後、東京大学医学部附属病院の物理療法内科に入局。そこでは、教授の宮本昭正先生、そして同じ岐阜高校出身の先輩・須甲松信先生という、ふたりの恩師と出会いました。物理療法内科はとても自由な雰囲気があり、それまでの医局とはまた違った環境の中で、診療と研究の両方にじっくりと取り組むことができたと感じています。
自らの選択で再スタートを切ったこの経験は、私のキャリアにとって大きな転機となりました。
物理療法内科に在籍していた頃、宮本教授からお声がけいただき、アメリカ・クレイトン大学のアレルギー科に留学することになりました。そこでの約2年間は、主に気管支喘息に関する研究に取り組んでいました。
渡米には妻と長男も同行し、現地で長女が誕生。実験と家庭を両立するスタイルの生活が始まりました。平日は朝、息子をナーサリーホームに送り、8時半から夕方5時ごろまで大学で実験に没頭。その後迎えに行き、夜は家族とゆっくり過ごす——そんな毎日を送っていました。週末は完全オフ。家庭と研究のバランスが取りやすく、理想的な環境だったと感じています。
夏休みなどの長期休暇には、家族でアメリカ各地を旅しました。ときには9日間かけて複数の州を巡ることもあり、「一生分の旅行をしたのではないか」と思うほどの経験になりました。研究に専念しつつ、家族との時間もしっかり確保できたこの留学期間は、私の人生の中で最も豊かなひとときのひとつです。
2004年、アメリカから帰国後に国立国際医療研究センターへ入職しました。ここでは呼吸器内科の臨床に携わる一方で、次第に病院全体の運営や制度設計、組織づくりといった業務にも関わるようになりました。
当時は、新病棟の建設や法人制度の見直しなど、大きな変革期にありました。院内の多くの会議に出席しながら、医療と経営の両面を学ぶ機会に恵まれた時期だったと感じています。また、2011年の東日本大震災では、当センターからの医療支援の一環として、人員の派遣や現地調整にも携わりました。
その後、呼吸器内科の責任者を経て、2019年に病院長に就任。ちょうどその頃は、病院の経営状態が赤字続きだったため、診療体制や組織運営の見直しに着手しました。その結果、2019年度には、独立行政法人化以降で初めて病院全体としての黒字化を実現することができました。
しかし、その矢先に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の国内流行が始まりました。特定感染症指定医療機関として、国からの要請を受けながら、感染症患者の受け入れ体制の整備や医療資源の確保に追われる日々が続きました。
とくに印象に残っているのは、2020年初頭、情報がほとんどない中で、武漢からの帰国者やクルーズ船の重症患者を受け入れたことです。当センターには結核対応の専門病棟があったため、それを活用し、限られた人員と資源の中で、現場のスタッフと一丸となって迅速な対応にあたりました。
国立国際医療研究センターでの任期を終えるにあたり、これからのキャリアを見つめ直す中で、地元・岐阜で新たな挑戦ができないかと考えるようになりました。そうした中で出会ったのが、中部国際医療センターです。
施設や体制について詳しく知るにつれ、地方にありながら、これほどハイスペックな医療設備と機能を備えた病院があることに驚かされました。大学病院にも引けを取らず、むしろそれ以上とも言える環境で、これまで培ってきた組織づくりや病院運営の経験を、地域医療の現場で具体的なかたちにできるのではないかと感じたのです。
理事長が掲げる「国際的に通用する、日本を代表する医療機関になる」というビジョンも、決して夢物語ではありません。現実的なステップを着実に踏んでおり、私自身もその一端を担えることを、大きな使命だと感じています。今後は、より広い医療圏から選ばれる病院を目指し、さらなる成長と発展に貢献していきたいと考えています。
医師を目指す皆さん、そして当院での研修を検討している方々に、まずお伝えしたいのは、「視野を広く持ってほしい」ということです。岐阜という地域で医療に従事することには大きな意義があり、地域医療に貢献することも重要な使命です。ただ、それだけにとどまらず、全国、さらには世界へと視点を広げて、自らのキャリアを見つめる姿勢も大切にしてほしいと願っています。
当院には、そうした視野を育むための環境が整っています。中濃地域の中核病院として、多様な疾患や症例に触れる機会があり、幅広い専門分野を持つ医師から学ぶことができます。また、希望があれば、私自身を含めた医師やスタッフのネットワークを活かして、首都圏や海外でのキャリア形成も積極的にサポートします。医師としての知識や技術に加え、異なる文化の中で暮らす経験は、きっとかけがえのない財産となるでしょう。
当院での研修を通じて、ご自身の視野を広げ、キャリアアップにつながるさまざまな機会をぜひつかんでください。そうした「挑戦の場」を提供することも、病院長としての大切な役割のひとつだと考えています。
プロフィール
杉山 温人
杉山 温人
- 東京大学医学部 昭和56年卒業
- 国立国際医療研究センター名誉院長
- 医学博士
- 日本内科学会総合内科 専門医
- 日本呼吸器学会 専門医、指導医
- 日本アレルギー学会 専門医、指導医
- 日本リウマチ学会 専門医、指導医
- 日本がん治療認定医